情熱と教養と人脈があったから
北里柴三郎はなぜ歴史に名を残せたのか。
彼の忍耐力と、学問に対する情熱はもちろん目的達成のために不可欠だ。
しかし、その他にも理由として、教養と人脈があったからだとわたしは考える。
教養と人脈のなかで得たチャンスを自らつかみ、懸命に取り組んでいった結果歴史に名を残せた。
いわずもがな、実力があったのだ。
あとから自分の考えの変化を省みれるように、今からわたしの考えを記録していこうと思う。
教養で周囲の期待に応えていった
第一に教養があったからである。
北里は自然豊かな町に生まれ育ち、幼少期に儒学と歴史を学んだ。
そこで熊本に生まれたものとして矜持を持ち、熊本生まれのものとしてどう行動するべきか、常に考えて生きるようになった。
10代後半になると、医学だけを学ぶことなく、剣道もするなど、文武両道の生活を送った。
20代になると、バイトと医学の勉強、学校生活を両立した。
こうして、若い頃に、あらゆる分野の知識を身につけるだけでなく、日々の運動により強靱な身体を手に入れたのである。
若い頃に教養を身につけた北里は医学に対してのはっきりとした自分の意見を持つようになる。
彼はその意見を胸の内にしまって置かなかった。
組織を作ったり、大勢の学生を前にして弁論を展開したり、論文を書いて投稿した。
つまり、積極的な自己発信をしたのである。
類は友を呼ぶとは本当のようで、彼の論文を読んだり、弁論を聞いたりした人々が、彼を登用していった。
北里はもちろん、自分に与えられた課題を確実にこなしていく。
このようにして、北里は無意識のうちにチャンスを作り出し、それらを掴んでいったのである。
このチャンスは北里に教養があったが故に巡ってきたものだと言える。
なぜなら、意見を主張するとき、根拠がなかったり、筋道が通っていなければ、話は聞き入れてもらうことはできないからである。
また、人柄が良いと、その人の意見は正義に立つものであることが多く、共感した人々は自然とついてくるようになる。
彼の意見の根拠は、彼がそれまでに身につけた教養からきており、彼を人々が慕うのは、彼に教養があり、良い行いをしようとする人柄であるからである。
東京で医学を学んでいたとき、教授との諍いは絶えなかったそうだが、彼の意見に共感して彼を慕う人々は多くいたという。
人々に信頼されていたことが伺える。
信頼は時間をかけて培われる。
これもまた、彼が教養を持って人々と誠心誠意で交流していたからであろう。
よい刺激がある環境下にいた
第ニに人脈があったからである。
人の考えには、それまでにその人が出会った人々の考えが反映される。
北里は、マンスフェルトに出会って医学の奥深さを知った。
その可能性に魅了されたのだ。
そしてコッホに出会い、学問とは何かを知る。
このように良い考えを持った良い師に感化され、自分もまた人々を感化していったのだ。
まとめ
したがって、北里は確かな知識をもって自身の意見を積極的に発信したために、無意識のうちに自分の夢を叶えるためのチャンスを掴んだのである。
そして、そのチャンスに、懸命に取り組んだために成功できたと言えるのである。
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