はじめに
大学の文化人類学で、通過儀礼の講義があった。
内容は、人が境界線をひき、分類するのか、というものだ。
そこでわたしは、通過儀礼の意義と大切さを学んだ。
通過儀礼という境界を経ることによって、カテゴリーの移行がスムーズになるということだ。
過渡期としてどこにも属さない期間に身を置く中で、そのカテゴリーに属するものとして、どのような行動が適切か、自分はそのカテゴリーの中でどのような役割を果たして生きていきたいか、などという事を考える良い時間を与えてくれる。
将来像と責任への自覚、社会認知を上げるため
通過儀礼は人生の節目節目にあり、例えば、七五三や成人式、結婚式、お葬式などがある。
このときの気持ちを想像してみると、どんな感じがするだろうか。
まず成人式という通過儀礼に出席したなら、自分は大人の仲間入りだという自覚が生じるだろう。
もう子供ではないから、と自分のあらゆる行動を改めるかもしれない。
子どものときだから許されたことと大人では許されないことへの意識を強め、大人としての権利や義務を明確に果たすようになる。
結婚式を上げる場合ではどうだろう。
ひとさまにお披露目することによって、自分たちが婚姻関係にあるという事実を広めたり、式を行う中でこれからの新しい生活に胸を踊らせる。
このように、私たちは人生の節目という境界を通過儀礼として経験することによって、次のステップに進むことへの自覚や、将来へのビジョンをつくっていくのだという。
とはいえ、なかには結婚式を行わないカップルもいる。それはそれで行われなくても良いが、結婚式という通過儀礼がないことで、自分たちがどのように結婚相手への責任を自覚し、いつ夫婦としての今後の生き方を考えていく時間を確保するのか、などという問題が生じる。
これらは、過渡期という言葉としても言い換えることができる。
例えば、中学や高校に入学した直後では、「まあ、新入生だからしょうがないよね」などというような事を先生から言われたことがあるだろう。
また、お葬式の後には49日がある。この49日間の過渡期は、自分の親しい人がもういない事を受け止める時間ともなっているという。
つまり、通過儀礼には、上記に示した意味の他に、他者や自分自身に自分の立場を認知してもらうという意味もあるらしい。
まとめ
どのカテゴリーにも染まりきっていない過渡期としての通過儀礼は、人が将来像を考えて次の段階へと移行していく大切な時期だ。
たとえそれに参加しないとしても、自分が分類されたカテゴリーへの意識と責任をもち、将来像を考えるような時間を人生のどこかで確保することが必要である。
一国民として、どのように権利を使っていけばいいのか、についてもわたしの個人的見解をまとめましたので、ぜひご覧くださいね。
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